達人の教え
「型には、身体と思考の日常性を解体する知が存在する」
 (振武舘黒田道場・黒田鉄山)

 17、18歳の女性が酔漢にからまれたとき、側溝へ投げ落としたといって新聞に載ったことがありましたが、それで護身術ができるようになったなどと思うのは、それこそ生兵法といって、危ないことです。
からだの大きい男でさえ明るい夜道を選んで通るというのが、武術の心得です。
自分からはけっして強弱、勝負を求めないものです。
 ふだんお仕事をしながらこうやって武術の本質を学ぶ事は、末永く社会に順応するということです。
暴力に対しては、その暴力に打ち克つ暴力を自身に蓄えようとするものではありません。
人の尊厳を傷つけたり、貶めたりするような稽古や行いは厳しく慎むべきです。
 本来あるべき侍の術技的な美しい動き方そのものを追求することは志も高く、学ぶ楽しみもより大きいものです。
何か気持ち悪いと感ずるような危険性を帯びた人が来たら、即座に回避できるような察知能力は、こういう柔らかい稽古で育ちます。
[古武術で目覚めるからだ 洋泉社より]


 「下達ではなく、上達を目指して」
 (新陰流 前田英樹)
 上達・下達というのは『論語』のなかにある「君子は上達す、小人は下達す」という言葉から来ています。
上達をできる者が君子であり、下達する者は小人であるという意味です。
 「上達する」とは文字どおり上に達するということで、上に達するといったときの「上」とは最初から与えられているのもではなくて、その人その人の身体を通じて創造されるもの、つくりだされるものをいうのです。
 だから上達とは、何か絶対的な真実というわけではなく、多様に創造されるものです。
それまで存在していなかった質が、その人自身のなかに創造されることといえるでしょう。
 下達には、何も創造なんかありません。
日常動作の反復だから、そのなかで誰がどう立ち上がるか、誰が出し抜くか、つまり、同じようなことをやりながら、「俺はあいつより強い」とか言い合っているようなものです。
 上達は、各人の身体のなかに創造していくものだから、誰が誰より強いなんてことを言う必要がないわけです。
上達を目指す人は、その固有の創造過程のなかにいるわけだから、交流はできるけど、競い合う必要はないのです。
それは、芸術的な創造などと同じで、ゴッホとセザンヌと、どっちが上手だなんてことは言いません。
ところが、絵画教室なんかに行って下達している人たちは、「誰かさんは誰かさんよりうまい」というようなことに終始してしまうわけです。
[古武術で目覚めるからだ 洋泉社より]


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